命がけで中国の不公正をただす-盲目の法律家・陳光誠氏

2018年05月07日



2017年10月 初来日した陳光誠氏


2012年4月"陳光誠脱出"のニュースに当時は度肝を抜かれた。それ以前から山東省の農村で軟禁状態に置かれていた陳氏の下へ多く人権派弁護士やネット市民が危険を冒して会いに行っていることに注目はしていたが、まさかあの厳格な監視態勢から抜け出せるとは思ってもいなかったからだ。
陳光誠氏は2005年頃に行われていた計画出産いわゆる一人っ子政策を守らせるために、山東省の農村で横行していた妊婦の強制堕胎(強制避妊)とそれに伴う暴力行為に対する行政への抗議を契機に世界中から注目を浴び、その後の厳しい監視下を潜り抜けてアメリカに亡命した盲目の法律家であり人権活動家である。 
現在ワシントンで暮らす陳氏の初来日に際し、インタビューをした映像がある。不屈の精神力を持ち、今でも中国を変えようと活動し続ける陳氏の思い、軟禁されているときの様子などをご覧いただきたい。

指圧師ではなく法律家へ


「陳光誠」とは一体どんな人なのだろうか-2017年10月18日の夕刻、成田空港の到着ロビーでカメラを構えながら私は少し緊張していた。予定より1時間以上も遅れて陳光誠氏は、妻の袁偉静氏と第3子となる8か月の息子さんを伴って現れた。柔らかい物腰ながら一瞬でその場の空気を絡めとるような、不思議な強さを漂わせた陳氏の風格にすぐに魅了された。「お待たせしましたね」と、その大きくて分厚い手で力強く握手を交わすと、彼の辿った道程の険しさを想像して胸が熱くなった。

陳光誠氏は、1971年に山東省臨沂市東師古村で生まれた。生後5か月で高熱を発し、医者に診せることができず光を失った。家計が苦しく、出稼ぎに出ていた父と村に残された母はたった2元の現金を用意することができなかったのだ。
どのような子供だったのか、インタビューの初めにたずねてみた。「家の中にじっとしているような子供ではなく、村の中をあちこち探検して他の子供がしないようなことまでする活発な子でしたよ。とにかく好奇心が強くて、いつも『これは何?』と聞いて回っていました。同じくらいの年の子供が答えられなければ、もっと年かさの子に聞いて、それでも答えられない場合は大人のところへ行って納得のいく答えが得られるまで止めなかったのですよ。」といたずらっぽく笑った。
就学年齢になっても学校へ通わせてもらえなかったが、好奇心の抑えられない陳氏は教室の窓辺から漏れ聞こえてくる授業をこっそり聞いたり、父が読み聞かせてくれる歴史の本に影響を受けて道徳や正義を学んだりしたという。
その後、18歳でようやく盲学校へ入学することとなるが、行政の支援もなく相変わらず家計は苦しいままだったため、いつもお腹が減っていたと当時を振り返った。さらに中国医学の学位を取得して指圧師としてのスタートを切るはずだったが、陳氏が興味をひかれたのは法律だった。

「裸足の弁護士」誕生


中国の障がい者保護法では、税金の免除や公共交通機関の無料利用が謳われていたが、守られることはなく山東省の実家では税金を徴収する官吏が容赦なく陳氏の分の支払いを要求し、バスの運転手は「タダ乗りは許さない!食堂でも無銭飲食をするのか!」と怒鳴りつけたという。
「私の周囲では不公正な出来事が多すぎました。差別もたくさん受けました。どうにかこれを解決したかったし、解決する基準とは何なのかを考えていました。それが法律でした。法律はその社会の道徳から生まれているのであり、多くの人が納得して受け入れられる合理的な社会規範の最大公約数であると考えたのです。」と陳氏は語ったが、法律を学ぶのは簡単ではなかった。
「本当に大変でした。視覚障がい者用の教科書はありませんでしたので、父や兄に読んでもらって記憶し、重要なポイントは点字に書き写して学びました。」

こうして法律への関心を深めた陳氏は、盲学校で起きた教師による学生への暴行事件をラジオの法律相談コーナーに持ち込んで現地のマスコミがその責任問題を取り上げて学校側の責任を認めさせたり、北京の陳情所で自身の税金免除に関して掛け合って実現させたりするなど、法律の効き目を、身をもって知ることになる。
そして、陳光誠という名前を全国的に有名にした出来事が起こる。陳氏が障がい者カードを見せて北京の地下鉄に乗ろうとすると、係員が切符を購入するよう求めた。そこで障がい者保護法について説明したものの追い返されるという出来事が起きたのである。そこで陳氏は知人の弁護士と共に北京地下鉄を相手取って訴訟を起こすことにする。CCTV(中国中央電視台)の番組でもこの件を取り上げることとなり、世論の盛り上がりも手伝って陳氏は和解を求める北京市地下鉄の言い分を退けて勝訴する。この様子は全国で放送され、"裸足の弁護士"としてその名を知られることになる。

不実の罪で収監


2000年代の初め頃から中国ではインターネットが普及して、自由な言論空間ができ始めていた。中国の各地で起きている不合理な出来事をネットに書き込み、知識人や人権派弁護士が連携してそれらの社会問題に切り込もうとする市民運動が活発になり始めていた。汚職や不公正に声を上げ、憲法や法律を守る民主的な社会を目指す新公民運動と呼ばれる運動が広がり、さらにオリンピック開催の決定や経済成長の目覚ましさも手伝って世論は盛り上がりつつあった。
そんな空気が流れていた2005年の初め、重大な相談が当時北京にいた陳氏の下に寄せられる。
「故郷の東師古村から連絡が入り、一人っ子政策は変わってしまったのか?と聞かれたのです。私は電話を受け、そんなはずはないと答えましたが、相談者は地元では妊婦を好きなように捕まえて殴り、強制的に連行して堕胎させているというのです。」

驚いた陳氏は、北京から慌てて東師古村の実家に戻った。到着してから1時間もしないうちに隣村からも被害者たちが集まってきた。被害者の話によれば、妊婦を家から引きずり出して無理に病院で堕胎させ、逃亡すれば家族のみならず親戚や近所の者まで拘束して暴力を加えるというのである。
陳氏は友人の人権派弁護士たちと共に調査を始めると、胎内の赤ちゃんに毒針を刺して無理に死産分娩させたり、まれに生きたまま生まれてきた胎児をバケツに張った水で溺れさせたりするなど次々と残酷な実態が浮かび上がってきた。
陳氏はこの調査の結果を世間に公開し、さらに訴訟を起こそうとした。しかし、当局の強い恨みを買うこととなり、不当に拘束された上に公共財産の破壊と交通秩序かく乱罪という不実の罪を着せられて4年3か月の刑を言い渡されてしまう。
収監後は1日の減刑もされず、家族の面会も数回しか許されず、さらに房内では暴力を受けることすらあった。

自由を求める闘いが始まる


刑期を終えて、ようやく出所が許された陳氏が自宅へ戻ったのも束の間、自由の身にはならなかった。数多くの監視員が自宅周辺を見張っており、7つもの監視カメラ塔が築かれて水も漏らさぬ監視体制が陳氏と家族を待ち受けていたのである。
「私が出所する前から家族には自由がありませんでした。私は"合法"的に刑務所にいましたが、家族は違法に軟禁されていたのです。私の出所の1週間前になるとさらに監視員を増やし、70~80人になっていました。母だけが出入りを許されて買い物に出かけられましたが、菜っ葉の一枚一枚を調べられ、店の人にお金を渡す時も監視員が調べてからでないと渡せませんでした。」
出所とは名ばかりの自宅刑務所が出来上がっていたのである。不自由な軟禁生活に強い憤りを感じていた陳氏は信じられないニュースを耳にする。政府の定例記者会見で、海外の記者が陳氏の現状に関する質問をするとスポークスマンが「陳光誠は自由です」と言い放ったのである。
「ですから私がどんな風に"自由"なのかを世界中に見せてやろうと思ったのです。」と話し、軟禁生活を撮影して世間に公開した。当時の映像には、隣の家との間に作った壁を上って中を見張る監視員の姿や就学年齢に達しても小学校の入学が許されず、庭で一人遊ぶ娘の姿が映されている。

これがネット上に公開されると、"自由光誠!(陳光誠を自由に!)"を掲げて多くのネット市民や人権派弁護士や活動家が続々と山東省の東師古村を目指してやってきた。海外でも大きく注目され、アメリカの俳優でバットマンを演じたクリスチャン・ベールも陳氏に会おうと東師古村まで来ている。当局の監視員に手荒く追い返された映像はCNNを通じて世界中に配信され、衝撃を与えた。しかし、映像の流出やネット市民の運動は陳氏にとって現状をさらに悪化させるものとなってしまう。
「この映像は大きく取り上げられたようで、大騒ぎになりました。きっと監視員も上から相当なプレッシャーをかけられたのでしょう。通常の監視員に加えて警察や地元の役人までやってきて私を縛り上げて殴打を浴びせかけました。さらに妻を布団にくるんで庭に放り出し、数人の男性が彼女を取り囲んで蹴ったのです。」
そして「私は出所した1日目から、絶対に脱出してやろうと思っていました。」と語った通り、陳氏は盲目のハンデをものともせず、何度も脱出を試みる。耳を澄まして監視員の動きを観察し、彼らの様子を分析して隙をうかがった。そんな日々は1年半に及んだ。

決死の脱出から渡米へ


「あの日はやや弱い雨の降る日でした。」と陳氏は語り出した。
監視員が水を汲みに行ったほんの少しの隙を見逃さず、脱出を決行したのである。2012年4月20日の昼頃のことだった。たった30メートルほど先まで、8時間をかけて自宅の周囲の壁を一つずつ慎重に乗り越えて脱出を図ったのである。しかし、5つ目の壁から落下して右足を骨折し、立ち上がれなくなってしまった。そこへ想定外の新たな石積みの壁が陳氏を阻む。
「予想もしなかった壁が新たに現れ、しかも足を骨折して立つことすらできませんでした。しかし、私はもう後戻りはできない、絶対に自由になるんだと自分に言い聞かせました。この石の壁が登れないのであれば、壊してしまおうと考えたのです。そして一つずつ音を立てないように這い上がれる高さにまで石を下ろしました。」

こうして全ての障害を乗り切り、隣の西師古村に到着した陳氏は村人に助けを求める。西師古村には強制堕胎の問題で陳氏の助けを受けた村人の男性が暮らしていた。今度はその男性が陳氏の窮状を救うことになる。知らせを受けた男性は、ひっそりと陳氏の兄に連絡を取り、兄は北京の支援者に「かごの鳥が逃げた。」というメッセージを送って脱出を知らせたのだった。もう20時間以上が過ぎていた。
「村を出た時にはまだ成功したとは思っていませんでした。兄の電話は盗聴されていますし、1分でも早く山東から脱出しなければならないと思っていました。」と当時の心境を語った通り、最難関を突破した陳氏だったが、まだ危険は迫っていた。
支援者が用意した車両がようやく到着し、一行は急いで北京に向かって脱出を試みた。北京では支援者たちが用意した隠れ家で一時身を潜め、結局はアメリカ大使館に救助を求めて避難する。そして、当初中国に残留する意向を示していた陳氏は迷った末にニューヨーク大学の招きに応じて渡米を決意するのである。
この辺りの詳細は陳氏の著書『不屈』(白水社)や時事通信の元北京特派員で筆者の友人でもある城山英巳氏の著書『中国 消し去られた記録~北京特派員が見た大国の闇』(白水社)をご覧いただきたい。

自分たちの手で世界を変えることができる


話が少し戻るが、東師古村周辺の妊婦たちに対する残虐な実態の真相を暴いたことでどのくらいの人が救われたと思うか、と陳氏に聞いてみた。
「刑務所に入れられてしまったので後から聞いたのですが、村の政府はあれ以来暴力的に堕胎する方法を改めたそうで、村人からはずいぶんと感謝されました。それに・・・」と言ってにやりと面白そうに笑って次のように話してくれた。
「私の監視員の一人が苦々しげに『お前のせいでこの辺りは9万人も人口が増えたんだぞ!』と言ったのですよ。その子たちももう中学生になる年齢です。きっと親たちは彼らが生まれてきた経緯を話すでしょうよ。」
石積みの壁の前でも絶望せず、一つ一つ石を下ろしたように、彼が救った子供たち一人一人が未来への希望となっていくのだと感じた。国外に出てしまえば、以前ほどの影響力を持つことは困難かもしれないが、陳氏はどんな影響力よりも強い確かな足跡を残したと言えよう。

「自分たちの手が世界を変えることができ、粘り強く努力を続ければ克服できない困難などないと信じることです。」
陳氏はこんな言葉でインタビューの最後を締めくくった。

(協力:アムネスティ・インターナショナル日本 / 音楽:Maoudamashii)




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【この記事は、Yahoo!ニュース 個人の動画企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

1997年上海師範大学卒業後、テレビ番組制作会社に入社。現在は自身が取締役を務める制作会社AsianComplexでドキュメンタリーの制作を手掛ける。満州からの引き揚げの背景に迫った『NHKスペシャル/引き揚げはこうして実現した』や69年ぶりに帰国を決めた残留孤児に密着した『ハイビジョン特集/最後の帰郷』をはじめ、『シリーズ辛亥革命100年/ラストエンペラー・真実の溥儀』など歴史をテーマにした番組のほか、中国社会の深層に迫った『チャイナブルー/ある企業家の記録』でATP優秀賞を受賞。

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