戦時のブラジル日系社会における最大の謎  サントス強制立ち退き

2018年04月27日

名簿の存在
2016年8月、連日にかけ私は南米ブラジルの巨大都市サンパウロから港町であるサントスの日本人会館に足を運んでいた。南半球のため8月のブラジルは冬だ。サントスに保管されている資料の存在を知ったからだ。サンパウロとサントスの距離は約75キロ、例えば、東京で言えば鎌倉あたりに連日行くような距離だろう。3日間続けて通った。
バス停から比較的近い場所にあるが、歩くとかなり治安の悪いトンネルを抜けるため、相乗りのウーバーで日本人会館に向かった。パラナ通り129番地。古い建物だ。かつて学校として使われていた。
事前に連絡をしていたので、会長補佐の大橋健三より説明を受けた。サントスは移民の受け入れ港として歴史とかかわりが深かく、戦時中に日系人がある日突然立ち退きになった話を一通り聞いた。来客用に一般へ配られている資料をもらった。夕方のバスの時間が気になり、さて、これから帰るかという時に無造作に玄関のそばに置かれている名簿を見つけた。「1943年サントス立ち退きの名簿」と書かれている。何気なく手に取ってみると沖縄に多い苗字が目についた。案内してくれた大橋に認してみると、立ち退きに関することを知ってもらおうと、玄関にコピーを置いているが、ほとんど誰もこの名簿に興味を持ってくれないまま2年くらいの時間が過ぎたということだ。ワールドカップやオリンピックの時期に日本から観光客や記者も訪れたそうだが、それでもこの資料に目に留まらなかったという。
早速、オリジナルの茶色に日焼けしたファイルを持って来てくれた。585家族の日系人の名前と共に住所が書き添えられていた。戦後、スウェーデン領事部で作られた英語の書類も含まれていた。大橋は歴史の研究者や専門家ではないが、簡単な冊子でサントスにおける日系人の動向を年表にまとめていた。
「一体、これがどこのだれが作ったのか、分からないんです。移民100周年の2008年、日本人会館の私の仕事の机の上にこのファイルが置かれていたのです。謎解きの様な状態でした。はじめは全く興味がなかったのです。中身のほとんどは名簿でしたが、中には日本の戦時中の権益について資料があって...。しかもこのサントスの町で強制立ち退きがあったということも知らなかったんです」と。
1943年7月8日、ブラジルのドップス(政治社会警察 DOPS)の指示によって24時間以内にブラジル・サントス海岸近郊から強制的に立ち退かされた日系人585名の名簿と日本の領事に関する資料だった。名簿だけで25枚に及ぶ。
これまでまことしやかに語られてきたサントスの強制立ち退き、戦時中の北米における日系人の強制収容などの迫害は有名だが、ブラジルでのそれは埋もれたままで全く語られていないと知る。名簿の作成者を手繰ると、当時のサントス日本人学校の校長だった柳澤秋雄だと分かった。書類の中で当時、サントス地方には約760家族約3,800人の日本人が居住していたと云われ、サンパウロ州の海岸地帯には、約2,250家族約12,750人の日本人が居住して居たとの記録が残されている。そのため、585家族の名簿はその一部となる。
(註:成人になっているブラジル生まれの2世は、強制退去より除外された)
日系ブラジル人が口を閉ざした理由 
ブラジルには二紙の日本語新聞がある。そのうちの一つニッケイ新聞の編集長の深沢正雪に「サントス強制立ち退き」がどう扱われていたのか聞いてみる。戦前、日本語新聞の発行禁止、日本語教育機関の閉鎖などが行われ、日系移民への情報が遮断された。また1964年のクーデターによって成立した軍事政権が追い打ちとなり、日系移民は軍事独裁政権に対し、批判的な強制立ち退きの歴史を残すことを避けた。そのため、まったくブラジル社会、日系社会の歴史の中でほとんど語られていない事実だということ。ほとんどどこにも書かれないまま70年以上の月日がたったと知る。
そして証言者の何名か紹介してもらった。芋づる式に取材をすすめていくうちに20人以上の体験者の話を聞いたが、すでに75年近く前のこと、このことを話ができる人が、当時子供だった人に限られてきた。

斉藤明子の場合(旧姓)岡本
明子は当時、サントスで小学校に通っていた。家族で住むスザーノはサントスの町に遠く、教育を受けさせるために、父の仕事で縁のある長尾さんの家の家に預けられていた。半年に一度は帰省していたころ立ち退きに遭遇した。よその家に預けられていたので、他の人に比べ、1日遅れで退去したという。子供だったので資産を持っているような状況ではなかったが、大人が懸命に工夫していた姿を覚えている。

五十旗パウロの場合
父がサントスの中央市場で商売をしていた。日本語の教育が禁止されていた時期だったが、子供に日本語教育を受けさせるために、自宅に先生を招いてこっそり授業が行われた。
漁師とか日本の船員相手の仕事だったから、サントスから追われた後、一時期父親がスパイ容疑で投獄された。なかなか帰ってこなかったが、母親と子供が共に警察にむかって「家の稼ぎ手がいないから返してくれ」と頼みこむと、警察も折れて父親を戻してくれた。サントスを追われて移民収容所に着いてすぐ、サンパウロの親戚の家に行った。

現日本人会館は旧サントス日本語学校だった
当時、この日本人会館は日本語学校として運営されていたが、1938年以降ブラジルでは移民の外国語の教育が禁止され、学校の名前も日本語学校を変更して使用されていた。学校は戦時中にブラジル軍に接収され、2008年の移民100周年の記念の年に建物が返還された。
一般的にブラジルの日系社会では「西洋人たちは、町を拓くとまず教会を作るとされ、日本人は学校を作る」と言われる。
この建物で生まれ育った森口イグナシオに話を聞きに行った。イグナシオは退去時、8歳だったたが、ほとんど記憶が残っていない。戦時中、敵性国民というだけでイグナシオはいじめを受けた。どうやっていじめを跳ね返したかといえば「努力した」という話が最も印象に残った。
イグナシオの父も日本語学校の教員として働いていたが、その時の校長先生が、柳澤秋雄だと知る。長野県生まれの柳澤秋雄のことを調べたが、1994年に逝去していた。しかも長男も2015年に逝去していた。長男の嫁は日系人だったので、秋雄とつながりが深かった。それで資料に関するある程度のことを覚えていた。だが、どういう目的でこの資料を製作したのか、詳細はわからなかった。柳澤が戦時中、ブラジルにいる日本人の権益のために外国の領事館の部屋を借りて、そこで仕事をしている時期に名簿を作っていたことだけが分かった。オリジナルの資料を長男と嫁が一緒にサントス日本人会館が返還された後に行って寄贈したという。
 柳澤校長は日本の師範学校を出て、ブラジルでも教職の資格を持っていた。両方の国の資格を持つ人はまれだったので、かなり優秀な人だと伺える。この人でなければ、資料を残すことは難しかったのかもしれない。

サントス強制立ち退きから見えたこと
いま世界中で戦争や貧困を理由に祖国を離れた難民や移民などが、ある特定の民族や宗教であることに対して差別が顕著化しつつある。こういう時代に突入しつつある今だからこそ、日系移民がどうふるまったのか、また、どうやってその困難を乗り越えたのか知ることは、次に過ちを繰り返さないためにも、先人の教訓に学ぶことが多いと感じた。




<作品クレジット>
企画・監督・撮影・編集 松林要樹
音楽 Taizo Tsukada
ドローン撮影・Rody Nunes
通訳・翻訳 鶴田成美…もっと見る

1979年福岡県出身。05年アフガン選挙を取材。06年よりバンコクを拠点にアジア各地を取材。09年にタイ・ビルマ国境付近に残った未帰還兵を追った映画『花と兵隊』を発表、以降映像作家として活動。2013年には原発事故後、福島県相馬地方で生き残った馬を追った『祭の馬』を発表。著書に「馬喰」など。現在は沖縄県在住。

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