火に委ねる

2018年09月14日

福島第一原発事故により住み慣れた土地を追われ、新たな土地で工房を構えた陶芸家がいる。近藤学さん(68)、経済産業省に伝統工芸品の指定を受けている「大堀相馬焼」の窯元の一つ、「陶吉郎窯」を継ぐ9代目だ。今年4月、息子の賢(38)さんと一緒に、福島県いわき市四倉町に移転し新たな工房をオープンした。先祖から受け継いできた伝統産地を離れ、新たな一歩を踏み出し始めた。

福島県浪江町大堀地区は今も帰宅困難区域のまま。ここにかつて近藤さんが仕事を覚えた工房があった。主のいなくなった工房は、残された作品と陶吉郎窯の看板が寂しそうに見えた。近藤さんが定期的に一時帰宅をし、管理している工房はいまも震災前の佇まいを容易に想像させる。近藤さんは、徐々に朽ちていく工房の姿を人に見せたがらない。その心情は作家として陶芸にこだわってきた近藤さんの気持ちを考えれば十分に理解出来ることでもあった。
 
震災前には20軒ほどあった大堀相馬焼の窯元も、折からの後継者不足に、原発事故からの避難が重なり、震災以降は半数ほどに減少してしまった。学さんはそんな状況の中、いわき市内に仮の工房を自分で借り、営業を続けてきた。今年4月には、いわき市四倉町に新たな居と、工房を再建。それには先の見えない避難生活への苦悩、先祖から受け継いだ伝統産地を大事にしてきたことなど様々な思いが交錯したが、何より自分の作品を自由に作れる場所を求めていた。近藤さんは伝統ある相馬焼の窯元ながら、伝統を発展させた独自の作品を生み出してきた。日本美術展覧会や日本現代工芸美術展など、多数の受賞実績を誇る。

陶芸は、窯で陶器を焼く「焼成」の作業がもっとも重要だ。近年では電気やガスの窯で火力を安定させて陶器を作る窯元も増えてきたが、学さんは薪で火を焚く 登り窯 にこだわった。

登り窯は部屋が3室あり、1番目の部屋から3番目の部屋へ登る構造になっている。
約1週間、24時間薪をくべ続ける。窯の中の温度は1200度以上に達する。薪で焚かれた炎は1番目の部屋から3番目の部屋まで登り、その際に薪の灰が陶器に付着し、釉薬の役目を果たす。 灰のかかり具合や炎の当たり具合で作品の出来が大きく左右される。データや計算通りにはいかない面白さと、いわゆる一点物が出来上がるため、作品作りには欠かせない工程だ。

大堀相馬焼は約300年前、1690年に相馬藩藩士 半谷休閑がその世話人 左馬と日用品を作り始めたことから始まったとされる。後に相馬藩が相馬焼を特産品として保護。職人の育成、販路の確保などの支援したことで、この地域に根づいた。江戸時代、大堀地区には100軒以上の窯元があったという。
相馬焼は、釉薬を使った青ヒビ、内と外に構造が分かれた二重作り、相馬藩のシンボルマーク「馬」の絵をつかった3つの特徴をあしらった焼き物が有名だ。
今のスタイルが確立したのは戦後のことで、過去を遡ると多種多様な作品が残っている。相馬焼は、時代とともに作風を変えてきたといえる。

陶吉郎窯を創業した近藤陶吉郎の父親、近藤平吉は元々京都で修行し、茶器に多い「楽焼」の職人として江戸で窯元を操業していた。平吉は、江戸の徳川家直参旗本 近藤登助の六男だと言われている。

「武士の子息が陶芸職人として身分を落としてまで陶芸を生業としたのには何かわけがあるのだろう」と学さんはいう。

平吉は腕を買われ、福島の会津藩に召し抱えられ、その後、三春藩(福島県田村郡三春町)へ移り、多くの弟子を抱えながら、息子の陶吉郎と焼き物を生業とした。平吉の死後、弟子たちが建てた平吉の石碑が、いまも三春町に残っているという。
その息子陶吉郎は、今度は相馬藩に召し抱えられ、相馬藩大堀へと流れてきた。そこから代々、それまでの相馬焼になかった京風の要素を持ち込み、相馬焼の発展に貢献したという。

京から江戸、会津、三春、相馬、そして現在居を移した磐城へと、受け継がれてきた伝統。自分の意志ではないにしろ、その先祖からの奇妙な縁に私は興味を惹かれた。

2011年から私は福島を定期的に訪れ、風景の変化を観察してきた。震災後、私たちの中に、何が残されたのか。残ったものをどう受け止めるのか。残されたものの中から何を残すべきなのか。
先祖から受け継いだものを自身で昇華し、焼き物として形に残してきた陶芸家が、伝統の地を離れ、これからどう生きていくのか、何を継承していくのか。考えを巡らせてもらえたら嬉しい。




<作品クレジット>
DIRECTOR / CINEMATOGRAPHER / EDITOR
Yahiro Shin

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